キングダム史実 荊軻の始皇帝暗殺未遂|燕太子丹・地図と短剣の結末
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この記事の結論
- 荊軻は樊於期の首と督亢の地図を献上し、秦王への接近には成功した
- 秦舞陽の動揺後も献上は進み、袖が切れて最初の攻撃を逃れられた
- 秦王の反撃で計画は失敗し、丹を殺しても燕への攻撃は止まらなかった
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荊軻による秦王暗殺未遂は、献上品で王の近くまで入り込む計画には成功し、短剣を突き出す段階で失敗した事件だ。秦舞陽が震えた時点で追い返されたわけではなく、荊軻は秦王の袖をつかむところまで迫っている。
相手は、のちに始皇帝となる秦王・政。当時はまだ皇帝になる前である。『キングダム』の史実背景となるこの事件について、『史記』巻八十六「刺客列伝」には、燕側の相談から準備、宮殿での襲撃、燕の結末までが記されている。
燕太子丹が求めたのは領土返還、できなければ暗殺
『史記』によると、燕の太子丹は秦で人質となり、秦王の待遇を恨んで燕へ逃げ帰った。その後、秦の侵攻が燕にも迫る。秦と正面から戦うには国力が足りず、諸侯が連合する見込みも立たないというのが、丹の置かれた状況だった。
鞠武の外交案より、目の前の危機への対処を選ぶ
丹の怒りには個人的な事情もあった。幼いころ趙で親しかった政が秦王になり、秦へ人質として来た自分をよく扱わなかったというのだ。ただし、暗殺の相談に至るころには秦の侵攻が進み、燕の君臣全体が危機を恐れる状況になっていた。
丹の教育係である鞠武は、秦の土地・人口・軍備の強大さを挙げ、待遇への恨みから強国を刺激することを戒める。亡命してきた樊於期についても、秦が求める人物を抱えることは飢えた虎の通り道に肉を置くようなものだ、と反対した。
鞠武が勧めたのは、樊於期を匈奴へ移し、三晋や斉・楚、北方の勢力とも結んでから対処する道だった。しかし丹には、それでは長い時間がかかり、待てないという焦りがある。また、行き場を失って頼ってきた樊於期を、秦の圧力のために見捨てられないとも述べる。軍事力の差をどう埋めるか、保護した人をどう扱うかで、両者の判断は分かれた。
田光の推薦で荊軻を招く
そこで鞠武が紹介したのが、思慮深く沈着な人物として知られる田光だった。だが田光は、太子が聞いているのは自分の壮年時代の評判であり、既に衰えた自分には任せられないとして、親しくしていた荊軻を推薦する。
荊軻は燕で高漸離らと酒を飲み歌う一方、書を好み、各地の賢者や豪傑とも交わっていた。『史記』が田光について記すのは、そうした荊軻を凡人ではないと認め、よく遇していたことだ。推薦は宮殿での剣の腕を試して決めた、という話ではない。
丹は田光を送り出す際に、国の大事なので漏らさないよう念を押した。田光はこれを自分への疑いと受け取り、荊軻へ太子に会うよう伝えた後、自ら命を絶つ。その死を荊軻から聞いた丹は、秘密を守って計画を成し遂げるための言葉であり、死を望んだのではないと泣いて述べる。荊軻が引き受ける相談には、既にこの犠牲が伴っていた。
丹が荊軻に語った第一の目標は、秦王を脅して諸侯から奪った領土を返させること。それができなければ刺殺し、秦国内の混乱によって諸侯が連合する時間を作ろうとした。最初から「殺すことだけ」が目的だった、と縮めると、生け捕りのように王を押さえようとする後の説明が分からなくなる。
荊軻は依頼を受けたものの、すぐには出発しない。王翦が趙を破って秦軍が燕の南の境まで進むと、焦った丹が出立を求めた。ここで荊軻は、王の前に出るには信用させる品が必要だとして、樊於期の首と督亢の地図を挙げる。
秦の歴史を描く『キングダム』もあわせて
本記事は史料の記述を扱っています。漫画の展開とは区別してお読みください。
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首と地図を献上品にした接近計画
樊於期の首は、秦王が求めていたもの
樊於期は秦王の怒りを買って燕へ逃れ、丹に保護されていた秦の将軍である。『史記』は、秦王がその首に金と領地の褒賞を懸けていたと記す。荊軻は秦王が欲している首を届ければ、喜んで面会すると考えた。
丹は亡命者を犠牲にすることを拒む。そこで荊軻が樊於期をひそかに訪ね、秦に殺された父母・一族への復讐と燕の危機を説き、首を求めた。樊於期は承知して自ら命を絶つ。丹が命令して処刑した、という手順ではない。
なお、この樊於期を桓騎と同一人物とする説は、ここで読んでいる「刺客列伝」が明記する内容ではない。事件の説明に、その説を確定事項として組み込む必要はない。
督亢の地図は服属の証であり、短剣を隠す道具
地図を差し出す行為には、その土地を秦へ献上する意味があった。荊軻は秦王の寵臣・蒙嘉に贈り物をして取り次ぎを頼み、蒙嘉は、燕が秦に服属する意思を持ち、樊於期の首と督亢の地図を届けると王へ伝えた。
首と地図は、別々の小道具ではない。首が秦への協力を、地図が土地の献上を示し、面会の口実を作る。そのうえで、巻かれた地図に隠した短剣を、王の目前まで運び込む仕組みだった。丹は徐夫人という人物の鋭い短剣を求め、毒を用意させたと『史記』は記す。
待っていた同行者は来ず、易水から出発する
丹は鋭い短剣を百金で入手し、職人に毒を仕込ませた。『史記』では、試した相手はわずかに血が出ても死んだと、その危険性を記している。王の目前へ隠して運ぶ道具に、失敗が許されない致死性も用意したことになる。
副使に選ばれた秦舞陽は、十三歳で人を殺し、周囲が正面から見られないほど恐れられた勇士として紹介される。一方、荊軻には遠方から来るのを待っている同行者がいた。準備をしても出立しない荊軻に、丹は心変わりしたのではないかと疑い、秦舞陽を先に送ると迫った。
荊軻は怒り、一振りの短剣だけで強い秦へ入るため、その客を待っていたのだと答える。そして丹が出発を遅いとする以上、別れを告げると決めた。この箇所には、来なかった客が誰か、同行できていれば作戦が成功したかまでは書かれていない。
丹と事情を知る客人は白い衣冠で見送り、易水のほとりで高漸離が筑を奏で、荊軻が歌った。帰らない覚悟を表す歌の後、荊軻は車に乗り、振り返らず去っていく。準備段階での丹と荊軻の不一致は解消されたというより、秦の接近を前に出発へ押し切られた形だった。
秦舞陽の動揺から、袖をつかむ瞬間まで
秦の宮殿では荊軻が首の箱を、副使の秦舞陽が地図の箱を持って進んだ。ところが、階段に至った秦舞陽は顔色を変え、震えだす。怪しむ群臣に対し、荊軻は、辺境の者で天子を見たことがないため恐れている、と取り繕った。
この後、秦王は荊軻に地図を取るよう命じる。荊軻が秦舞陽の地図を受け取って差し出したため、秦舞陽の動揺で接近そのものが中止されたわけではない。中央研究院が掲載する『史記』『戦国策』の該当原文でも、この順序を確認できる。
地図を開ききると短剣が現れた。荊軻は左手で秦王の袖をつかみ、右手で突き刺そうとする。しかし、刃が体に届く前に、秦王が身を引いて立ち上がり、袖が切れた。献上の場を作る段階は突破したが、最初の一撃で王の動きを封じられなかったのである。
柱の周囲の追跡と秦王の反撃
秦王は剣を抜こうとするものの、長い剣を慌てて扱ったため、すぐには抜けない。荊軻に追われ、柱の周囲を逃げ回った。
では、群臣や武装した兵は何をしていたのか。『史記』の説明では、殿上に仕える群臣は武器を携帯できず、武装した郎中は殿下に控え、詔命なしには上がれなかった。突然の襲撃で召集が間に合わず、周囲は素手で応じる状態だった。荊軻が追跡を続けられたのは、王以外の全員が不在だったからではない。
侍医の夏無且が薬袋を荊軻へ投げ、周囲は秦王に剣を背へ回すよう促す。ようやく剣を抜いた秦王が荊軻の左脚を斬り、動けなくなった荊軻は短剣を投げるが、王には当たらず柱に刺さった。さらに傷を受け、最後は周囲の者に殺された。
荊軻が語った失敗の理由と、その後の燕
樊於期へ首を求めた場面で、荊軻は左手で袖を取り、右手で胸を刺す動作を語っていた。宮殿でも袖を取り、短剣を突き出している。その一方で、荊軻は最期に、事が成らなかったのは秦王を生きたまま脅し、約束を得て丹に報告しようとしたためだ、と語る。これは『史記』が伝える本人の言葉である。一方、実際の動作としては、袖が切れて最初の攻撃を逃れられたこと、秦王が剣を抜いて反撃したことが転機になる。
事件後、秦王は燕への出兵を強め、燕の都・薊が陥落した。燕王喜と丹は遼東へ退くが、追撃を受けた燕王は丹を殺し、秦へ差し出そうとする。それでも秦の攻撃は終わらず、燕は最終的に滅ぼされた。秦王一人を押さえて燕を救うという丹の構想は、実現しなかった。燕を含む六国の滅亡順は、秦の統一戦争の順番で確認できる。
『史記』の末尾には、荊軻が秦王を傷つけたという世間の話を司馬遷が否定する記述もある。「毒の短剣を持った」ことと「秦王に毒が入った」ことは区別が必要だ。司馬遷は、侍医の夏無且と交わりがあった公孫季功・董生から事情を聞いたとも記す。これは史料自身が示す伝聞の経路であり、後世の勇壮な語りのすべてを採用しているわけではない。
読み終えたら『キングダム』をもう一度
秦の歴史を描く『キングダム』もあわせて。漫画の描写と本記事の史料上の記述は区別して読んでください。
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よくある質問
荊軻が襲ったのは始皇帝になった後?
襲撃時は秦王・政であり、のちに始皇帝となる人物です。この記事は『史記』の記述を扱います。
秦舞陽が震えたため、その場で追い返された?
『史記』では荊軻が取り繕い、秦舞陽の持つ地図を受け取って献上しています。襲撃はその後です。
